1550年代には30万丁の火縄銃が、秀吉の時代(戦国時代末期)には50万丁あったともいわれ、日本は世界最大の銃保有国となっていきました。
戦国大名の中で鉄砲を最も効果的に使用した織田信長は石山本願寺との戦いに10年に亘って苦戦します。本願寺には最強傭兵集団の「雑賀衆」(さいかしゅう)という援軍が付いていたからです。「信長公記」に依れば、本願寺は数千丁の鉄砲で信長を攻撃したとか。雑賀衆は傭兵として金儲けをし、そのお金を鉄砲購入に充てました。鉄砲数が多いだけでなく、さらに連射法を身に着けていたとも言われています。連射法とは5台の鉄砲を組み替えて打つ方法で、一人で撃つ場合と比べて3倍の速さで打つことができたそうです。
信長は雑賀衆と和睦を結び、軍備を強固なものにしていきますが、長篠の戦での信長の戦略の「3段撃ち」はこの雑賀衆の連射法をまねたものではないか、という説もあり、さもありなん、と私も納得です。長篠の戦で信長が使用した鉄砲の数は3,000丁と言われていますが(もっと少なかったとの他説もあり)、ライシャワー元駐日アメリカ大使(ハーバード大学教授・東洋史研究者)の著書(JAPAN, the story of a nation)には、戦いに参加した兵士は38,000人、そのうちの10,000人がmatchlockmenで、彼らの密集隊列での絶え間ない攻撃が戦いの勝因であった、と記されています。何丁の鉄砲を使ったかの言及はありませんが、仮に3千丁の鉄砲を1万人で駆使できたとしたら、やはり「三段撃ち」か「連射法」だったのではないでしょうか?
当時火縄銃は1丁50~60万円くらいの値がついていたと言われており、3,000丁だとざっと18億円になります。フランシスコ・ザビエルが本国に送った手紙には「日本人は珍しいものを高値で買い取る」と書かれているそうです。
鉄砲の導入により戦は経済力の勝負となっていきます。また弓矢のように訓練が不要だったため、民衆も大名の軍勢として戦うようになり、鉄砲足軽隊が多くなりました。弾丸は鎧を貫通する能力があったので、防弾性機能を高めた当世具足という新しい鎧が登場したことはご存知の通りです。
ライシャワー氏も述べているように、鉄砲の使用により城はそれまでの丘の上の小さな城から、広い堀に囲まれた同心円の城壁を伴った城へと変化していきました。 石垣には火縄銃の性能を活かし、正面と側面からも攻撃できるように横矢掛かりや屏風折れも作られるようになっていきます。松本城にも黒門近くに横矢掛かり、屏風折れが作られていますね。
火縄銃と火縄銃の戦いであった戦国時代には鉄砲が大量に製造され、激しい戦いが繰り広げられたのですが、その鉄砲の使用が戦国時代を終焉させることになったことは皮肉です。
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