いくつかの特徴があると思いますが、それぞれガイドの興味、感じ方で違うようです。 これは一例です。
1. 国宝
キーワード Old & Genuine
2. 複合連結式天守
3. 家康を監視する豊臣方の城
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現存12城
数ある天守の中でも江戸時代から現存している天守はわずか12しかありません。 あとの天守と言えば 昭和の時代になってから復興・復元されたり、歴史上存在しないにも関わらず建てられたものなどです。
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国宝5城
松本城(長野県) 犬山城(岐阜県) 彦根城(滋賀県) 姫路城(兵庫県) 松江城(島根県)
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重文7城
弘前城(青森県) 丸岡城(福井県) 備中松山城(岡山県)丸亀城(香川県) 伊予松山城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県) 高知城(高知県)
複合連結式天守

松本城は二つのパートから構成されています。
1. 天守、乾小天守、渡櫓 1593〜1594 戦いのために設計されている
これら3つの櫓が連結されているので、連結式天守と呼びます。
2. 辰見付櫓、月見櫓 1633 平和な時代 楽しむための櫓
そして1と2の部分が複合された形式を複合連結式天守とよび、松本城だけの特徴です。 また二つが複合されたことによって、形状も安定し、非常に美しくなりました。
1. 松本城の天守は大小天守を渡り櫓で繋ぐもので、いわゆる連立(結)式天守の希有(けう)な例であり、 名古屋城天守の先駆をなすものである。 2. 辰巳附櫓・月見櫓を増築しその構成を複雑化し、ことに月見櫓を殿舎(でんしゃ)風造りとしてある のは姫路城西の丸化粧(けしょう)櫓(やぐら)とともに、城郭建築中の異彩と見ら れる。 ※「殿舎(でんしゃ)」とは「ごてん」のことで戦いの拠点である天守に生活のにおいのす る建物を附属させたのは姫路城西の丸化粧櫓とともに、城郭建築の中では珍らしいとのこと。 青木資料 2011より
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五重六階
大天守は外部からは5階に見えますが、内部は6階になっています。 下から二つ目の大きな軒の陰に3階が あります。 乾小天守も同様で三重四階です。
松本城は公式には層塔型に分類されていますが、この「重」と「階」が一致しないことは望楼型天守の特徴 です。 望楼型から層塔型への過渡期の天守といわれる理由の一つです。
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コーヒーブレイク
松本城の別名の一つが「烏(からす)城」”という話が一人歩きしていますが、歴史的に松本城が「烏城」と呼ばれた事実は無いそうです。 正式な別名は「深志城」です。
お城の研究員の方の話では
「どこかのバスガイドさんが、黒っぽいお城なので、そう呼んだのがいつの間にか定着してしまったのではない か」 とおっしゃってました。
多くのサイトに松本城の別名は「からす城」だというふうに書かれているし、松本市民の多くもそう呼んでいます。 自分もつい最近までそう思っていました。 ここ まで浸透するとニックネームとしてはそれでよいような気がします。 ただ正式名称というのは、松本城が現役 の時代に、城主またはそれに関係する人が命名、もしくはその当時の民衆が何らかの理由でそう呼び、資料 も残っているものだと思います。 よってやはりそういう正式な名称とは区別すべきだと思います。
東側を見張る前線
どうして松本にこんな大きな天守があるのでしょう?
豊臣秀吉が天下統一した際、徳川家康を関東に移封しました。 でも家康はいつ反旗を翻 すかわかりません。 よって家康包囲網をしき、また東側への防御ラインを固めました。 そのひ とつとしての松本城です。
また松本は、関西、関東、新潟方面へ通じる重要な位置を占めていたので、重用していた 石川数正をこの地に送り、五重六階の大きな天守をあげ秀吉の威光を示しました。
石川数正はもと家康のNo.2,3の重臣でした。 数正が秀吉に走ったことは歴史上の謎とされています。 (諸説ありますが、ハッキリはしていない)

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死角をなくす
日本の城はいたるところで 「死角をなくす」 工夫がされています。 これから説明する土塀(堀の本丸側)がスムーズな 直線・曲線ではなく折れていることや、狭間、石落としの役割、また乾小天守は天守の死角をなくすための役割もありま す。
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土塀
天守のある本丸は総堀・外堀・内堀の3重の堀にかこまれていた。 堀の内側には土塁が築かれ、その上には 銃眼付きの土塀が廻されていた。 本丸は石塁で防御されていた。
土塀は死角をなくすためにジグザグの折塀(おれべい)となっていた。
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鉄砲戦に備えた城
これは松本城に限ったことではなく、日本全国どのお城も同様の設計です。 その特徴の中のいくつかです。
矢狭間・鉄砲狭間
長方形の大きなものは矢狭間、正方形の小さなものは鉄砲狭間と呼ばれていますが、実際は両方とも銃眼と して使用されたようです。矢狭間は下方(足下)を狙うために縦長になっているのではと考えています。(死角をなくす)
石落とし
袴(はかま)腰型(ごしかた)の石落で11ヶ所設置されています。 「石垣をよじ登る敵の上に石を落とす」と説明 されていますが、石落は石垣を登る敵に火縄銃を下に向けて撃つ銃眼として使用されたと考えられています。
下見板

天守の壁は「大壁づくり」といって戦闘のとき、火矢などを射かけられても延焼しないように、火に強い漆喰で塗り 込められています。 写真を見てください。 軒を支えている梁や垂木などすべて木の部分が露出していません。
ところが漆喰は雨に弱く、頻繁にメンテナンスできない戦国時代に築造された天守の壁の下半分は「下見板張り」 になっており、雨に強い黒漆を塗って壁を保護しています。 もちろんその下は土になっており、延焼しにくくなってい ます。
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破風

破風は、元は切妻造、入母屋造の造形です。 平安時代頃以降に千鳥破風や唐破風が現れ、室町末期・安土桃 山時代に神社の権現造や城郭の天守のように複数の破風を組み合わせるデザインが考え出されたとみられてい ます 松本城天守は破風が少ないと言われています。
また創建当初は破風の数も違っていたようです。
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乾小天守一階
現在は乾小天守、渡櫓は一般公開されていません。
各所共通の説明が多いので見ておいてください。
役割

乾小天守は天守の死角をなくすため、そして「埋み門」への備え
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乾小天守二階、渡櫓
現在は乾小天守、渡櫓は一般公開されていません。
矢狭間、鉄砲狭間
右が矢狭間、左が鉄砲狭間です。 内側の方が外側より広くなっており、死角が狭くなるようになっています。 天守には115 の銃眼が穿たれ、壁は1・2 階は28cm、それ以上の階では20cm 程と銃弾が貫通しないように
なっています。
武者窓
武者窓
武者窓とは天守・櫓または武家屋敷の表長屋の表側に設けた、太い竪格子(たてこうし)のある窓。 または一般に 同様な作りのまどをいう。 内側の格子がスライドして開くようになっています。 このような窓を正式には「無双窓」といいます。
堀の幅
当時の火縄銃は有効射程距離は50~60mで、50m 離れて3cmの板を撃ぬく威力をもっていました。
内堀は迎撃できるぎりぎりのおよそ60m の幅に造られた。
平城・平山城・山城
お城は立地の場所により「山城」、「平山城」、「平城」の3通りがあるとよくいわれます。 「平城」は平地に天守、堀、 石垣、住居などを造った城郭でわかり易いのですが、「山城」、「平山城」の違いが明確ではありません。 大雑把にいえば山や丘の高さを基準に区分するのではなく使い方に依ります。 山や丘の頂上付近を主に活用した のが「山城」、山や丘に重要部を造り平地部分も取り込んだものが「平山城」となります。
松本城は平城です。 一般的にほかの二つのタイプと比べ自然の防御が手薄なため堀を設けます。 松本城は北西 側に湿地帯を控え、天然の防御ラインがあったため、内堀と外堀が北側で兼用されています。
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城下町
城下町は防備がほどこされた町である。 経済効率を考えれば街路は碁盤の目状が理 想である。 「遠見遮断」とか「前方遮断」という一本の道を屈曲させて設置したり、丁字 路、喰い違い、鍵の手等の防衛上の工夫がされている。 また、寺の配置も考慮されている。 寺は城下町のはずれに寺町として配置されてい る。 松本の場合は城下の東側にラインを作っている。 寺は町屋より堅固に造られてお り、敵が侵入してきたとき城兵が城を出て城下末端の寺院でまず敵を迎え討つことが できる。 つまり、城の出丸的役割を担っている。 鍵の手 丁字路 喰い違い松本城は以 上見てきたように戦国大名武田氏の城下町から小笠原から水野氏までかかって近世城下町として完成を みた。

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歴代城主

6家23代の城主に松本は治められました。 こう書くと次から次みたいに感じますが、江戸時代255年のうち、戸 田家(2期)158年間、水野家 83年間、合わせて241年間もあるん ですよ。 だから松本を治めていたのは、戸田家と水野家といっても過 言でもないのではないでしょうか。


コーヒーブレイク
戸田氏の松本藩再入封 戸田氏が、松本再入封となったいきさつは、戸田家の事蹟を記した 「世々のあと」によれば、光慈十四歳のとき、享保十年(1725)八、 九月の頃、老中の松平乗邑に明き城となった松本領への転封を懇 請したゆえだという。 「前々より家来多く、それに対して鳥羽は領分 が狭く、収納も少ないために勝手向きはな握だ難渋し、家来どもの 撫育も行き届かず、この状態では公務も拡なはだ心許ない」と頼み こんだというのである。 享保十三年の財政改革の「口上の覚」には 「御当地は、御収納高も鳥羽と格別ゆえ、幸の時節」と書いている。 松本という領地は、それほどに豊かで魅力ある土地であった。 松本藩 田中薫著
当時戸田氏はかなり貧窮していたようです。 鳥羽からの入封についても松本の商人からの借金でまかなったそうです。
曲がった梁 ここから渡櫓
現在は乾小天守、渡櫓は一般公開されていません。
自然の木をそのまま使用して梁として使っています。 こうした自然のままの木の使用は強度の面ですぐれています。 この梁にはめ込まれた鋼板は、国宝松本城天守保存工事の経過を記したものです。
鬼瓦
現在は、乾小天守、渡櫓は一般公開されていません。
鬼瓦は厄除け、火災除けのため取り付けられる。 デザインは鬼の面だけではなく左は戸田家の家紋を鬼瓦、右は五七 の桐紋。
瓦に書かれた文字
瓦すべてではありませんが、瓦の制作者、住所、年代が書かれています。 これで天守の歴史の一部を知ることが出来ます。
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