耳寄りなお話(Tantalizing Tidbit) 20 「甲冑(鎧兜)当世具足 その1」

 室町時代後期の戦国時代から安土桃山時代に作られた甲冑の形式が当世具足で、鉄板の使用量を増やしたり、隙間を少なくしたりするなど、防御力に優れた甲冑でした。

戦闘の大規模化や鉄砲戦といった戦法の変化に伴って、製作が簡単で大量生産に適し、軽くて動きやすいという特徴を持った甲冑でもありました。武士が使っていた鎧の中では最も優れた防御力を持っていたと言われています。「当世」とは「現代」という意味で、それまでの伝統的な鎧に比べて「新しい甲冑」、という意味合いで用いたのだそうです。

 平安時代の上級武士用の鎧は革の小札(こざね)を色糸で綴った華美ではあるが大量生産には向かない構造の「大鎧」が主流で、従者達用の鎧は「徒立戦」(かちだちせん:歩兵による戦い)だったため動きやすい胴丸でした。鎌倉時代になると機動性に劣る大鎧は敬遠され始め、胴丸をさらに軽快化した腹当てに進化していきます。この腹巻はその動きやすさから次第に上級武士も着用するようになり、兜や袖などを具備して重装化し、南北朝・室町期に鎧の主流となっていきますが、 当世具足の登場により衰退していきました。

 面白いことに鎧の変化に伴って刀の形も変化していった、と居合術家で修心流居合術兵法創流者であり、ギネス世界記録を6個も保持している町井勲氏は言います。町井氏によれば、平安時代には至近距離において1対1で矢を放ち合う「騎射戦」(きしゃせん)が中心であったため、刀は根元からかなり反っていたとのこと(太刀)。それは大鎧が胸元と喉の隙間が大きく、その隙間に刀が容易に刺さるように作られていたからだそうで、この反りのきつい刀は馬を操りながら片手で簡単に胸元を突くことができたのだそうです。室町時代後半になると刀の反りは少し浅くなり、「斬る」ことを前提に作られていきます(打刀)。つまり「突く」から「斬る」刀に代わっていきます。江戸時代前期になると反りの浅い両手で扱う打刀が主流になり、根元幅が広く、先が狭い刀に変化していったそうです。

 お城2階に展示されている甲冑は足軽頭の甲冑と言われています。「非常に重いです」と説明しますが、当世具足の重さは12Kgから15Kgだったといわれていますから、ヨーロッパからの観光客には少々「?」マークの説明かもしれません。(展示具足は12.5kg)

 ご存知と思いますが、ヨーロッパの甲冑は頭と首周りを完全に覆う兜に、肩と腰をしっかり覆う胴鎧。腕部も脚部も完全に金属製の装甲で覆われています。「30~40kg とも言われているほど重く、時には歩くのもままならなかったらしいよ」と教えてくださったヨーロッパからの観光客もいました。チェコのプラハ城敷地内には鎧がずらりと展示されている建物があります。

1寸の隙間もなく金属で覆われた鎧は見ただけでその重さが伝わり窒息しそうなほど。

 侍は何故盾を持って戦わなかったのか?と質問を受けたことがあります。それは騎馬武者の主武器は弓であり、両手が塞がっていたためです。大袖を盾代わりにすることで身を守ったのだとか。

しかし大袖(肩につけられていた甲冑の一部)は戦闘の変化に伴い当世具足においては縮小または省略されていきました。 

 今夏松本市立博物館において「甲冑・刀剣武士の世界」展示会が開催されました。ご覧になった会員もいらっしゃると思いますが、戦国時代から江戸時代までの甲冑10領が展示されていて、面白い発見もありましたので次回に記します。