耳寄りなお話(Tantalizing Tidbit) 25 「Lady Samurai」(続き)

 鎌倉時代から室町時代にかけてはLady Samuraiに関して特徴ある記録は少ないそうで、今回は確証ある史料が残っている戦国時代のLady Samuraiについて記します。

 戦国時代に生きた有名な女性といえば、戦いに巻き込まれて夫と共に自害したとされる織田信長の妹で柴田勝家の妻お市。キリシタンとして夫に忠心を尽くして散っていったと言われる明智光秀の娘のたま(後の細川ガラシャ)がいます。

二人の女性に共通するのは、男性のために陰で生き、かつ男性らしさを隠し持つ稀な女性だった、と語られる点にあるそうで、「彼女たちの存在意義は本当に男性に依存したものだったでしょうか」と北川氏は問いかけます。そしてこの疑問こそがLady Samuraiという存在を確固たるものにする新しい切り口となるのだ、と言います。「戦わずに強く生きた」Lady Samuraiは、戦国という時代背景と強いサムライ像に隠され続け、ないも同然とみなされてきた女性にスポットを与え、女性を女性として扱うのみではなく、サムライ文化の一部として捉えることにより歴史研究に新しい切り口を与えるのだと北川氏は考えたのです。

 しかし、家長として、また相続権を持つものとして男性中心に物事が進んだのも事実。しかしそれは女性に役割がなかったということではなく、戦国時代のサムライの上流階級の女性たちの役割は「女性らしさ」よりも「サムライらしさ」を強く反映したものだったそうです。大名が戦に出た場合には妻たちは城を拠点として手紙で戦場の夫と交信しながら城や城下町の番をするという役割を持っていたのです。

 好例として秀吉の妻、北の政所「ねい」が挙げられます。「ねい」に関する記録や自筆の書簡は多く残っており、それらの手紙は地方の大名やその本妻にあてて送られ、黒印状の形式をとって男性のサムライと同じ書式で手紙を書くこともあり、他の大名と対等に会話をし、時には彼らを諫める場面も出てくると言います。

 また、それらの手紙からは、城下町の統治に関しても意見を言ったり、統治者の決定を覆したりすることができたことも伺われるそうです。城下町の人々にとっても大名の妻というLady Samuraiは、その地域の支配者に影響力を持つ唯一の人材であり、尊敬すべき存在だったのだそうです。つまり「北政所」は夫と共にペア・ルーラーとして考えられ、双方が助け合って一対で「サムライらしさ」を作り上げていったと北川氏は述べています。

 それまでは秀吉が単独の統治者で、「ねい」はその横にたたずむ存在として捉えられてきたのですが、その既成概念が「ねい」によって打ち破られたことは宣教師のルイス・フロイスが残した記述にもみられ、「秀吉は大阪城に夥しい数の婦女子を抱えていたが、婦人たちは誰も皆秀吉夫人の優位を認めていた」と、「ねい」が抜きんでた存在であることを認めています。(松田殻一・川崎桃太訳「日本史」中央公論新社)

 1590年代に秀吉が検知を始め土地所有制度を整えていきますが、その際「ねい」は大名にも匹敵する広い土地を北の政所の名義で管理し、そこから入る莫大な収入で自活できる仕組みを整えます。それ以前は中世の女性が化粧料や後家料と称して単独で土地を持つことはあってもその土地はそれほど広くはありませんでした。こうして「ねい」は秀吉の妻というよりは秀吉のペアのLady Samuraiとして経済活動さえも内外に認められる存在になっていくのです。

 「ねい」はその地位と経済力で秀吉の死後もサムライの上流階級に居座り続けます。皇族の女性たちが入る尼寺に隠居する生活を選ばず、自らのために創建された高台寺で秀吉を弔いながら生き、自分と秀吉の両方をまつったお霊屋に眠る手はずを整えてから永眠します。つまり秀吉とのペアとして自分の社会的地位を残したままこの世を去るのです。

 「ねい」の一生は特別だったのでは?との疑問も生まれるかもしれませんが、他の戦国時代の女性、特に本妻たちに関する資料を読むとその疑問は消え、戦国時代の上流階級に属した本妻たちは男性からも尊敬されるペア・ルーラー、つまりLady Samuraiだったことがわかり、学生たちも納得するのだそうです。

 それでは秀吉の側室だった淀殿、「茶々」はどうだったのでしょうか?

ペア・ルーラーとして華々しく生き残る女生たちとは対照的に連帯責任をとって散っていったのが側室たちです。彼女たちは三条河原における秀次の側室たちの処刑という「究極の場面」でその存在意義を問われます(太閤様軍記の内)。本妻が連座を逃れることとは対照的に斬首されました。京都に住むサムライの上流階級に属していた側室たちは定義的にはLady Samuraiですが、本妻という立場になかったため、「サムライらしい」最後を遂げることでその命の意味を残して死んでいったのです。

 それまで日本の女性は公の場では敬遠されるべきものであった血を流す死に方をさせられることはありませんでした。しかしこの処刑は正に彼女たちが女性である以前にサムライであるがためにサムライのように殺されたといえるのだそうです。つまりその時代のサムライと同じような最後を遂げることでLady Samuraiらしさを残して死んでいったのだ、と北川氏は述べています。

 茶々は燃え上がる火の中に姿を消します。自殺というある種の勇敢な行動が茶々のLady Samuraiとしての唯一の選択肢となります。女性的な「水」のエレメント(前号の入水)の反対に位置する、いわば男性的な「火」というエレメントの中に彼女の命は消えていきます。つまり、彼女は女性としてのアイデンティティよりも、侍としてのアイデンティティにのっとり、Lady Samuraiとして火の中で命を落とすのです。上流階級に属するがゆえに、つまりLady Samuraiであったがために、側室たちはその死に際しても女性らしさではなくサムライらしさを帯びながら散っていったのだ、と述べています。「昔の女性は強かった。それは時代によるもの」、と単純に考えていた私ですが、Lady Samuraiという概念が根底にあることにガッテン!です。                

・来年アルサは創立30周年を迎えます。30周年記念誌編集に取り組むため、今号でTantalizing Tidbitsは暫くお休みします。長い間お付き合いいただきありがとうございました。


参考:北政所については、寧々、ねね。おね。ねいなど言われているそうです。ここでは「ねい」

としております。