到着から渡櫓

はじめに

松本城の見学コースを追って主な見所を紹介します。 

日本に残されている本物のお城の一つです。創建当初の状態がよく残されているので国宝です。

このページを含めこのサイトの内容は、現場の案内板や一般にいわれていることと違う部分があるかもしれません。どちらが正しいかは歴史上のことではっきりしない場合があるので、判断は皆さんにお任せしますが、見学のまえに多少の予備知識があるとお城を一層楽しめるかもしれません。

到着

駅から歩いて約15分松本城公園の入り口です。そして後ろを振り返ると右の写真、今は見る影もありませんが、大名町です。読んで字のごとく上級武士が住んでいた場所です。

市立博物館です。お城の入場料700円にはこちらの入場料も含まれています。

入場

左の写真は枡形への入り口。中に入るとチケット売り場です。そしてすぐ黒門です。 黒門は黒いから黒門と呼ばれたのではありません。黒は当時最も高貴な色として大変尊重されたそうです。黒門は松本城にとって最も要の門だったので「高貴なる門」という意味合いを込めて、「黒門」と名づけられたそうです。

黒門を抜けるとすぐ右手にあるのが、市川量三氏と小林有也先生のレリーフです。このお二人がいなかったら今の松本城はありません。 市川量三氏は明治初期の廃城令の流れから、松本城を救った人。 小林有也先生は明治の大修理に尽力され、天守を荒廃から救った人。

外観

 松本城天守群は五つの部分から構成されています。そしてそのすべてが国宝に指定されています。 1593~1594に石川数正・康長父子によって建造されたといわれている、天守・乾小天守そしてそれをつなぐ渡櫓。それから家光を歓待するために、1633年に松平直政(将軍家光のいとこ)によって増築された辰見付櫓、月見櫓です。その歓待は土砂崩れのため、家光が松本に来ることができずに実現しなかったそうです。   天守・乾小天守・渡櫓は戦国時代の末期に築造され、実際の戦いを想定されています。そして、江戸時代に増築された辰見付櫓・月見櫓の優雅な作りが複合され、形状も安定し、非常に美しくなりました。

石落とし矢狭間、鉄砲狭間

・石落とし  壁のコーナー部分が張り出しています。壁をよじ登る敵をここから石を落としたり、弓や鉄砲で攻撃するためのものです。 ・矢狭間、鉄砲狭間  壁の所々に四角い穴が開いています。これらを狭間といってここから弓や鉄砲で攻撃するためのものです。長方形の狭間は矢狭間といい正方形のものは鉄砲狭間と呼ばれています。  でも実際はもっぱら鉄砲用だったようです。​

コーヒーブレイク

松本城の別名の一つが「烏(からす)城」だ”ということが一人歩きしていますが、歴史的に松本城が「烏城」と呼ばれた事実は無いそうです。正式な別名は「深志城」です。​お城の研究員の方の話では「どこかのバスガイドさんが、黒っぽいお城なので、そう呼んだのがいつの間にか定着してしまったのではないか」とおっしゃってました。   ウィキペディアや(2013/4/8 時点で修正されていました)いろんなサイトに松本城の別名は「からす城」だというふうに書かれているし、松本市民の多くもそう呼んでいます。自分もつい最近までそう思っていました。ここまで浸透するとニックネームとしてはそれでよいような気がします。 ただ正式名称というのは、創建当時、城主またはそれに関係する人が命名、もしくはその当時の民衆が何らかの理由でそう呼び、資料も残っているものだと思います。よってやはりそういう正式な名称とは区別すべきだと思います。

破風

 破風は、元は切妻造、入母屋造の造形です。平安時代頃以降に千鳥破風や唐破風が現れ、室町末期・安土桃山時代に神社の権現造や城郭の天守のように複数の破風を組み合わせるデザインが考え出されたとみられています。  松本城は破風が少ないといわれています。創建当初は今と少し違っていたようです。

大壁づくり・下見板

大壁づくり 火に強い漆喰で柱、梁などがすべて塗り込められています。木の部分が露出していないため、敵から火矢などを射かけられても、火災になりにくい工夫がされているそうです。左の写真を見ても、柱は外には露出せず、屋根の梁もすべて漆喰で塗り込められています。

下見板 漆喰は雨に弱いため、雨に当たりやすい部分は下見板張りになっています。そして雨をはじく黒漆を塗っています。下見板の内側にも土壁があり、下見板に火がついても、延焼しにくいようになっています。

乾小天守一階 (現在は一般公開されていません

この階は特別展示物はありませんが、柱、梁を見てください。丸太柱が使われています。天守は角材が多いですが、乾小天守は主に丸太柱です。 松本城築造は突貫工事だったので、付近の神社や仏閣を解体してその材料を使ったのでそのようになったと聞いたことがあります。そして表面は手斧(ちょうな)仕上げです。 またお城全体の柱と梁のうち70~80%が創建当時の材料です。  材料は主に栂で他に松、モミ、檜が使われています。

乾小天守二階 (現在は一般公開されていません)

徳川家康を見張る豊臣方のお城として築造され、実践を想定して設計されたお城です。そしてここではまとめて鉄砲戦に備えたお城の特徴を確認してください。

矢狭間・鉄砲狭間 長方形の狭間がが矢狭間、正方形のものが鉄砲狭間です。内側の方が外側より広くなっており狙いやすくなっています。 壁の厚さは約30cmで火縄銃では貫通できない厚さです。

コーヒーブレイク

昨日読んだ本に、火縄銃は銃身を下に向けると、「弾が転げ落ちてしまう」.... それじゃ天守や、 櫓から下方の敵に向かって火縄銃は撃てないことになります。

ということは籠城戦において火縄銃は役立たずということです。 これじゃ話が違う! と思って考えていたら、友人の知り合いに松本城鉄砲隊の方がいらっしゃることを思い出し、紹介を受け、伺ってみました。

結論から言うと、弾は落ちないということです。理由は当時の火薬は黒色火薬で、湿気を吸いやすく、弾と火薬を込めてカ ルキで突き固めると弾が火薬によって圧着されるので落ちることはないそうです。 そして発砲するとすすが銃身内部に付着して、余計に落ちにくくなるそうです。そのすすは何発か撃ったあと、お湯で洗い流すのだそうです。

武者窓

内側の格子がスライドして開くようになっています。

城下町

 これは1800年代前半の城下町の図です。平城は山城・平山城に比べて防御が手薄のため通常、堀を何重か巡らせます。図のように松本城も内堀・外堀・惣堀と三重の堀を巡らせていました。  また松本城下町は防御を考慮したデザインになっています。町の外側に神社仏閣を配し、道は狭く、T字路や食い違い、鍵の手と呼ばれる形状をを作って敵がスムーズに移動できないようになっています。そして町の北西側は沼地であったため自然の防御になっていました。

内堀の幅

内堀の幅  当時の火縄銃は有効射程距離は50~60mで、50m 離れて3cmの板を撃ぬく威力をもっていました。そして内堀は迎撃できるぎりぎりのおよそ60m の幅に造られました。  堀の深さは一様ではありませんが、いちばん深いところで約3m程でした。

渡櫓二階(現在は一般公開されていません)

 梁を見てください。木材の自然の形をそのまま利用しています。ここの展示物は主に瓦で昭和の大修理の際、交換されたものです。

松本城からは、金箔押飾瓦(きんぱくおしかざりがわら)や五七桐紋軒丸瓦(ごしちのきりもんのきまるがわら)が出土しています。これらはが秀吉が有力武将に使用を許したものです。松本城の他にも金箔瓦が出土している城があります。それらはみな豊臣方の武将はの居城で、家康包囲網の一部です。

 ケースの中の瓦にはそれを作った職人の名前、所在などが彫られており、それで歴史の一部を知ることができます。そしてわらじは屋根裏で見つかったもので、いつの時代かはわかりませんが、職人の忘れ物ではないかと言われています。