松本城物語


No.1


おまえ、さむらいの子に生まれなくてよかったな。 オシロジコシヤミ、申スモアワレ、というくらいのものだからな。 わたしの祖父が、そのまた父からよく言われたことばだそうでございます。


松本の冬の冷えは格別で、それも、あのお城のなかときたら、それはもう、手すり足ずりするほど寒くて、それ に、お勝手もとが不如意でございますで、炭も存分には使えなかったそうで。 ですから、お城づとめには、痔病み が多い、腰(神経痛)病みが多い、申すもあわれだけれど。 これがオシロ、ジ、コシヤミだったわけでございます。


お城やご殿には、大きな桶と長い樋を組み合わせた配水のしかけがあって、ちょうどいまの水道の役割をしてい たそうで、これが、冬になりますと、あちこちで凍りまして、桶屋さんがてんてこまい。 それで、御用の桶屋さんは、 凍みそうだな、と思うと、前の晩からお城に泊まりこんで、水みちを見てまわったもんだと、これも、祖父のはなしでございました。 でも、白い雪。 黒いお城。 あけがたの凍てついた空気をぬけてくる太鼓門の大太鼓。 お城には、いちばん、冬が似合ったそうでございますね。



No.2


中町の明神さまを信心してよく通った祖父母のはなしでございます。 新町の家を出て片端(かたは)へくだり、柳町へぬけての。 あそこはむかしは泥町(どろまち)といった湿地(しけっち)で、ほんとに柳の木がたんとあって、春さきなんぞ、浅黄いろに枝垂れた柳すだれのむこうに天守閣が、ちらちら、見えての。 明神さまの帰りには、大手橋(いまの千歳橋のあたり)をわたって、繩手へぬけてみることもあったよ。 大手橋をわたるにゃ、男も女も、かぶりものをとらにやならなんだ。 橋のつきあたりに大手門があって、両袖 の、それは立派な石垣をこわして、千歳橋を組み、緑橋を組んだのが、あれは明治九年のことだとおぼえてるが の。


そのころには、お城のぐるりに田んぼがいくらもあって、春の終わり、荒れて傷んだお城を眺めちゃ、せっせと田 植えに汗かいたものでの。


五月三十日、泣く子が欲しや。 あぜに腰かけ乳くれる。 赤ん坊が泣けば、それをかずけ(口実)に、しばらく 乳をふくらませ、からだを休めることができたわけさね。 えらく遠いむかしのことだが、おらお城を見るたんびに思い出すぞい。


No.3


明治のベストセラー、坪内逍遥の「当世書生気質」に、婚約者を大学へ出すために芸者になる士族の娘のはなしが出てまいります。 あれ、ちゃんとモデルがあったんですってね。 青年は、大学を出て、農商務省につとめ、婚約者と結婚し、やがて教師になって、松本へやってまいります。 お 城の見える丸の内(現在のテレビ信州本社の南裏)に質素な家を借りて、男の赤ちゃんも生まれて。


これが、小林有也先生。 二十九年間、松本中学の校長をつとめただけでなく、傾いて、荒れて、こうもりの巣とな っていた天守閣に心をいため、明治三十五年に天守閣保存会をつくり、こつこつ、みんなを説得して資金を集め、 工事が終わったのが、大正三年。 亡くなられたのが、翌四年。 いのちがけでやられたんだと思いますね。 ほんとに。


忘れもしませんが、その四年の夏、お城の松の大木が、いちどに何十本も枯れたんです。 ああ、松も、先生のおともをしたのかなあ、なんて。


先生は、おくにこそちがえ、やはり小藩の武士の出だったんですね。 ですから、お城の荒れる姿をご覧になるの が、おつらかったんじゃないでしょうか。