※ 長篠の戦い tera 2010/1/20
長篠の戦いにおいて、通説になっている鉄砲の三段撃ちや、武田の騎馬隊などは、現在では作り話だと言われ ています。
何年か前の朝日新聞にかなり大きく取り上げられました。 また2011年に県外お城研修で「長篠の戦い」の舞台 になった設楽原に行ったとき案内してくださったガイドさんの説明も同様でした。
長篠合戦図屏風
◆ 松本城の長篠合戦図屏風について 藤澤 2009


大阪城にある長篠合戦屏風図はどの大名家に伝わったのか、制作された経緯は?など詳 細がわかりません。 また写真もネット上では見つかりませんでした。 もしどなたかご存じの方、 写真を持っている方、是非投稿お願いします。
いつ頃描かれたものか聞かれオリジナルではありません、と答えたのですが、松本城に飾られているものはどこ にあるものが本物なのか教えてください。 合戦の屏風絵は江戸時代に何枚も描かれているそうですが....先日訪 れた犬山城にもありましたがだいぶ違いました。
(これの回答は複数の方がノート上で意見を述べられていますが、根拠がはっきりしているものだけ掲載しま
す。 管理人)
Re:松本城の長篠合戦図屏風について 中村 2009/8/5
青木研究員のおはなし 原図は大阪城天守閣にあるものです。 平成10年の展示替えの時に作成したもので、そのときのフィルムのネガを虫眼鏡で拡大してみると確かに石川数正の鎧は水色でした。
Re:松本城の長篠合戦図屏風について 渡辺 2009/8/8
長篠合戦図屏風 文 金子拓(東京大学史料編纂所助手) 「長篠合戦図屏風」は、現在十数種類の伝本が知られている。 大半の伝本の祖本と考えられている のが、犬山市成瀬家に所蔵(現財団法人犬山城泊帝文庫所蔵)されているいわゆる「成瀬屏風」であ る。 六曲一隻・紙本著色で、通常「長久手合戦図屏風」と対になって六曲一双屏風として伝来する。 成瀬家はもともと松平(徳川)氏に仕え、譜代の中でも古参に属する家柄だったが、正成の代に家康 から尾張藩主徳川義直の後見役に命ぜられ、以降代々尾張徳川家の付け家老として同国犬山三万五 千国を領することとなった。しかしながら徳川将軍家から見れば陪臣の地位に甘んじることになったため、成瀬家では、祖であ る成瀬正一の長篠合戦における戦功、その子に当たる正成の長久手合戦における戦功を合戦図屏風 として制作しこれを広めることにより、尾張藩からの独立を目論んだと考えられている。 制作時期は十 七世紀後半頃とされる。 成瀬家には正本に加え、他家に対する閲覧・貸出用の副本も用意し、それをもとに制作された写本 が松浦史料博物館などに所蔵されている。 同館所蔵本は、成瀬屏風に関心を示した松浦静山の主導 で文政年間(1818~30)に写されたものである。 また成瀬家の主家である尾張徳川家にも写本が伝 えられているが(徳川美術館所蔵)、祖本で目立った成瀬氏の戦陣姿が意図的に希薄化されたり、排 除されたりするなどの改変がなされている。 合戦絵巻合戦図屏風 出版社 (株)新人物往来社


コーヒーブレイク

自軍の戦死した武士の首を持って自陣へ戻ろうとしている武田方の侍が描かれています。 これは銃撃によっ て討ち死にした山県正景の首を、家臣の志村又衛門が自陣へ持ち帰るところです。
馬印 旗指し物
母衣

母衣(ほろ)とは、日本の武具の一種。 「幌」、「保侶」とも書く。 母衣は武士の「七つ道具」の一つとされている[1](*)。 戦場における甲冑着用の際に、縦に縫い合わせ た長い布を背中につけたもので、馬で駆けると風をはらんでふくらみ、背後に長く引いて背面からの流れ 矢を防ぐ役割を果たし、大鎧とともに馬を駆り弓を主武器とする当時の武士の戦闘法に適していた。 騎馬 戦闘が廃れた室町時代の頃からは、内部に鯨のひげなどで作った骨を入れ常にふくらんだ形状を維持し て背負う装飾具に変化し、差物(さしもの)の一種となった。 「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦 の胞衣になぞらえたものという説もあるが、確かなことは不明である。 母衣衆 武士の組織化が進んだ戦国時代には、母衣は赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別 しやすい母衣は大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の 軍装として使われることがあり、それら使番の集団を「母衣衆」と称した。 織田信長の軍には馬廻から選抜して使番として用いた「黒母衣衆」や「赤母衣衆」があり、これはそれぞ れ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせたもの 出典 Wikipedia
屏風種類
長篠合戦図屏風(成瀬屏風)
各家に伝えられているものの祖本になったもの
2014/6/9 追記
こちらは成瀬家が描いた本当のオリジナルです。 その他の絵図はこれを模写したものだといわれていま す。 この合戦図屏風は絵江戸時代初期に描かれたと考えられています。 描いた理由は徳川本家の重臣だった成瀬家が、尾張徳川家の付家老として出されたあと、それを不満に思 い、自分の先祖の武功をアピールしようと描いたといわれています。 よってこの屏風絵の主役は成瀬正一です。 与力だった彼は柵の外で兜も付けず、勇猛に戦っています。 そして描かれたのは江戸時代なで、またこの戦い自体が 徳川 vs 武田の戦いだったので家康、成瀬正一は 中央付近に描かれています。 そしてこの戦いに関しては、援軍という立場の信長や秀吉は隅の方に描かれています。


現存作例の多くは、連子川をはさんで対峙する両軍を一隻のうちに収めるが、本作では武田軍の姿がない。 もとは それを描いた右隻があり、一双で画面を構成していたのであろう。 描き込みが少なく、古様を示すやまと絵系の作品である。