
各場面での基本をみていきましょう。
文はあくまでも例文です。 また英語版「お城Watching」の直訳ではあり ません。みなさんが 説明する際は各自のストーリーにしたがってください。
外国にないもの、事を説明するわけですから、それに完全に対応する単語は 必ずしもないかもしれません。 よってお客様が、彼らの文化に照らし合わせてイメージしやすい単語を 選んで説明できればよいのですが、ネイティブスピーカーではない我々には容易ではありません。 だから皆さんが、案内をしているとき、疎まれない範囲で、言葉や文化について尋ねてみましょう。そしてわかったことや情報を会員間で共有しましょう。
役に立つかも 英語プレゼンの極意 カリスマガイドの「なぐも友美」
城

この惣堀の中が「松本城」です。 国宝の天守群は「松 本城」のなかの建造物の一つです。
「閉鎖されたある区域」
図解日本の城 西東社 中山良昭著
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基礎データ
基礎データ

歴史
松本城の前身は深志城。 1500年ころ小笠原 氏の一族坂西氏が方一丁の館城を造り、その後、 島立氏が入った。 小笠原氏の本城は林城で府中 井川館から現在の松本市里山辺林に居を移した のは1489年~1501年頃と推定され、深志城は 林城を支える周縁城館の一つであった。 1550年 武田氏は小笠原氏を追い、林城を破却して、深志 城を本拠地とした。 1550年~1582年までは深 志城は武田氏の支配下にあり、この時代に広大な 三の丸が造られ堀巾を広げ虎口には武田流の馬 (うま)出(だし)が設けられて武田氏の信濃経営の 兵站基地として深志城は造りかえられた。1582年、武田が滅び、小笠原貞慶が旧地を回 復して、深志城を松本城と改名した。 小笠原貞慶 は三の丸以内を武家地として整備した。1590年小田原の戦いの後、秀吉配下の石川 数正が入封し文禄2年から3年(1593~1594) にかけて数正の子石川康長が大天守・渡櫓・乾小 天守を築造した。 その後、寛永10年~11年頃(1633~34)越前 大野より7万石で入封した家康の孫松平直政が辰巳附櫓・月見櫓を増設して現在の松本城天守5棟が揃った。 青木資料2011より

古地図に見る大手門から本丸への道順

A: 大手門跡
「松本城」の正式な門は「大手門」です。 残念ながら現在は残っていません。 この門があったのは千歳橋の北側、道路 が変にずれている部分。 目をつむり、黒門の枡形を思い浮かべてください。 それと同様で規模の大きい門がここにあったのです。 そしていちば ん外側の惣堀はここまであったんですね。 現在の四柱神社はありませんでした。 庶民はこの門をくぐることはできず、場 内に入る場合は東門から入場したそうです。

大手門から北へ続く旧町名「大名町」、読んで字のごとく上級武士が住んでいました。


ちょっと一休み

ご存じ青翰堂(古書屋)さんです。 天守の形をしたお店で目立ちますね。
この店を作ったのは今のご主人のお父さんで、昭和29年に建 築したそうです。 何でこんな形にしたのかを聞いたら、ちょうどそ のとき「昭和の大修理」の真っ最中で、工事用のシート(むし ろ?)で天守が見えない状態だったそうです。 そのため観光客の 方に少しでも形をイメージしてもらうためにこのような形にしたそ うです。
その建築は大修理に参加したくてもできなかった地元の大工さ んにお願いし、1/20のスケールで、天守と同じ材料で建築した のだそうです。 当時は一番高かったのですが今はビルの谷間で すね。
その後、大名町の整備工事で道幅を広げたときは天守の形を した2階から上は下の柱を切り2m程スライドさせたのだそうです。
B 公園入り口

大名町の北の端、現在は左側に川舟、ALSAの待機ステーションがあるところ、現在 ではここから本丸公園に入りますが、もともとここは堀が巡らされており 通れませんでした。 お城への正式なルートは右に曲がり、堀沿いに進ん で太鼓門に向かいます。

このように本丸へは直線的に進めぬようになっており、堀沿いに進む敵を二の丸側の土塀の狭間から、鉄砲を撃ちかけます。
C:太鼓門
役割
二の丸への入り口。
火災の際は太鼓楼において太鼓と半鐘が打ちならされた。
総登城の合図 太鼓楼機能の第一は家中武士の登城の合図である。 「太鼓三つ、鐘二つ打ち 交え暫くの間打つ」 ことになっていた。
平成11年3月、3年の歳月と約7億円をかけて完成した「史跡松本城太鼓門枡形」です。 この門は大手門と違い写真、 図面に基づいて復元(restoration)された門です。 残念ながら内部の図面がなかったため、内部は復元されずがらん どうです。
玄蕃石(げんばいし)は太鼓門に向かって左側にある巨石です.

二の丸太鼓門にある巨石を「玄蕃石」と呼んでますが、この石について人々の酷使にまつわる話が残っています。 築城の際、井深村(岡田)にあったこの石を城普請のために運搬させようとしたとき、人夫の中に苦情を訴える者が一人いた。 それが城主石川玄蕃頭康長の耳に入り、康長は怒って多数の人々の前に呼び出し、たちどころに首をはね、槍の矛先に貫いて、自らはその石の上に飛び乗って「ものどもさあ引け」と命令して運搬させたという。 そして誰と言うことなくこの石を玄蕃石と呼ぶようになった。 松本市誌第二巻歴史編 近世 より
D:黒門

本丸への入り口。 この位置に黒門が存在したことは確実ですが、現在の黒門は史跡ではありません。 いわゆる「なーんちゃって門」です。 観光用に名古屋城の門を模して建造されました。
黒門は黒いから黒門と呼ばれたのではありません。 黒は当時最 も高貴な色として大変尊重されたそうです。 黒門は松本城にとって 最も要の門だったので「高貴なる門」という意味合いを込めて、「黒門」と名づけられたそうです。


ちょっと一休み
名前を呼ぶ
英語のコミュニケーションは、相手への呼びかけが必要。 相手方だの訪問者ではなく、名前で呼びかけると無意識に特別な一人であると自覚する。
↓
お互いの距離が縮まり、自分にとっての相手の大切さを増すという効果を促す。 名前を呼び合う際の大切なポイント
誰かと知り合ったらその場で名前を覚える メモ書き
ファーストネームがすべてではない。その場の状況により異なる
相手をどう呼んだらわからないときはその場で聞く
do you mind if I call you ....
What name do you go by? など
NHKラジオより
レリーフ

黒門を抜けるとすぐ右手にあるのが、市川量三氏と小林有也先生 のレリーフです。 このお二人がいなかったら今の松本城はありませ ん。
市川量三氏は明治初期の廃城令の流れから、松本城を救った人。 小林有也先生は明治の大修理に尽力され、お城を荒廃から救った 人。
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廃城令
正式には「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちと うせんていかた)」と長くて小難しい名前です。
要は城郭というのは「軍事施設」なわけで、明治政府も軍事クーデターで幕府から政権を奪い取ったわけです。 それが自分の身に降りかかる可能性は十分にあったわけです。 よって 「自分が軍事施設として使う城郭(存城部分)以外(廃城部分)は、取り壊しなさい」 というのが主旨です。
姫路城などは「存城」部分で松本城は「廃城」部分だったわけです。 そういえば新潟県の「新発田城」「高田城」な どは自衛隊の敷地と隣り合わせていたりしますね。
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