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III. 天守一階・二階



いよいよ天守一階です。 たくさんの柱があります。 そして母屋部分(中央部分)が高くなっています。 高くなっている部分の 下に16本の柱があります。 高くなっているのはたくさんの柱の荷重を16本の支持柱に伝えるため、地中梁が組まれている ためです。

そしてこの階では石落としを、場内から確認できます。


武者走り

天守の各層のいちばん外側を廻っている通路を「武者走り」と呼びます。 低くなっているからそう呼ぶわけではありませ ん。 上述したようにこの部分が低くなっているわけではなく、母屋部分が高くなっているのです。 そして外側の柱が天守台石垣に沿って建てられているため、内側に湾曲しています。

  

天守台(石垣の形状)

松本城天守創建当時の技術では天守台上面を設計図通りに正矩形(せいくけい)に造 ることは出来ませんでした。 どうしても、規格化した切石を使用していないため内側に 湾曲して積まれ天守台上面が不定形になりやすかった。 姫路城も犬山城も彦根城の天 守台上面は不定形です。 松本城天守の天守台は「糸巻き形」といわれ、中側に湾曲して積まれています。 したがって1階の武者走(廊下)部分はこのアバウトな部分を吸収する役目を果たして いる。 松本城大天守は武者走の内側に正矩形の母屋(もや)(身舎・・これが3・4階の広さ) が造られている。



土壁


昭和の大修理の時保存された、創建当時の壁の一部です。 外側にある部分は明治の修理の際、上塗りされた部分で す。 右側の写真は金沢城の土壁の構造模型です。


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雌雄について

松本城の公式見解は、 南、東側にあるもの(口を開いている阿吽の阿)が雄 北、西にあるもの(口を閉じている阿吽の吽)が雌

だと理解しています。 実はこの話、数年前に元会員の方がネットで調査しました。 結果は鯱も含め、仁王像、狛犬 などに見られるように口をあいたものと閉じたものが一対になっており、「阿吽」を表しているというのは共通してい るのですが、雌雄になるとその区別をしていない、松本城の見解とは逆など統一性がなく、よくわからない...という より雌雄という概念が元からあったものではなく後からのものなので、ばらばらになったのではないかと思われます。


参考サイト

EEKの紀行 春夏秋冬

姫路城英語ガイドのひとりごと


残った支柱

支持柱



天守を支えた16本の支持柱。 土台支持柱の長さは5mの栂材でした。

昭和の大修理の時発見された支持柱の一部。 これが見つかったため、支持柱の存在が明らかになりました。 天守 は17世紀前半から傾き始めたと言われています。 理由はこの柱が朽ちて天守の荷重で地盤が不等沈下したため です。 よく倒壊したかったですね。


関連記事:軟弱地盤


大修理

 明治の大修理


写真のように傾き荒廃したお城を小林有也先生の尽力により、1903年から1913年、途中日露戦争のため5 年間中断しまして5年の歳月をかけて行われました、 詳細は下のリンクからどうぞ。



関連記事:松本城天守閣は傾いていたのか?










昭和の大修理


この修理が一番大規模なもので、精査しながら石垣を含めすべて解体して、使用可能な部材 はそのまま使い、修理または交換が必要な部材は、創建当初と同じ材料を使い、同じ工法で 加工され、解体前と同様に戻しました。










以下はゲストに突っ込みを入れられた場合、話すようにしていますが、 「建築基準法」「消防法」により一般の人に開放する場合は、部分的な補強、消火設備の設置が義務づけられ ました。

  • 主な箇所 16本の支持柱はコンクリートパイルに

  • 壁の中には鋼製の筋交いが埋め込まれた

  • 消火設備の設置


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破風飾り

 懸魚


入母屋破風、千鳥破風を飾っていた懸魚です。 本来懸魚の役目は、破風板拝みの後方にある棟木の先端を隠す ためであり、そのため桁隠しともいっていました。



















右の写真を見てください。 黒い汚れみたいなものがたくさん見えると思います。 これは小さな釘です。 (錆びて曲 がっているのであんな風になっています。 )破風の写真を見ていただけると、懸魚も漆喰で塗り固められています。 普通にこの板に漆喰を塗ってもすぐにはがれ落ちてしまうので、釘を打って細い縄を巻き付け、その上から漆喰を 乗せるのです。 言い換えると表面に凹凸を作って漆喰がはがれにくくするためです。


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コーヒーブレイク



このお城には抜け道はあるのですか 昭和の大修理の時、松本城研究専門員の方々が?詳しく調べましたが、世に言われている「抜け道」は 発見されませんでした。 従って城山の方へ抜けられたという抜け道説は実証されませんでした。






天守二階


鉄砲蔵

 松本城の鉄砲

現在展示されている鉄砲は本物ですが、松本城に備えられていたものではありません。 文化12年(1815)松本藩は火縄銃を927丁所有していたと記録があります。


関連記事:天守二階 鉄砲蔵


早合


早合は火薬と玉が一緒になったカートリッジです。 実物は辰見付櫓のケースの中にあります。 火縄銃は早合を使うと、一分間に4回、早い人は、6回撃てるそうです。
















コーヒーブレイク


 昨日読んだ本に、火縄銃は銃身を下に向けると、「弾が転げ落ちてしまう」....それじゃ天守や、櫓から下方の敵に向かって火縄銃は撃てないことになります。 ということは籠城戦において火縄銃は役立たずということ です。 これじゃ話が違う! 思って考えていたら、yoshikoさんのお知り合いに松本城鉄砲隊の隊長さんがいらっしゃることを思い出し、紹介を受け、伺ってみました。 yoshikoさんありがとうございました。  結論から言うと、弾は落ちないということです。 理由は当時の火薬は黒色火薬で、湿気を吸いやすく、弾と火薬 を込めてカルキで突き固めると弾が火薬によって圧着されるので落ちることはないそうです。 そして発砲すると「す す」が銃身内部に付着して、余計に落ちにくくなるそうです。 そのすすは何発か撃ったあと、お湯で洗い流すのだそ うです。  市川さん、大変勉強になりました。 ありがとうございました。

鉄砲隊長の具足


重さ12.5kgです。 軽く感じますが常につけていればきついかも。



スターウォーズのダースベイダーのモデルは伊達政宗の鎧です。 現在はそのページがありませんが、当時ジョージル ーカスのスタッフから仙台市博物館に写真を送ってくれるように依頼があったようです。


関連記事:ダースベイダーのモデルは伊達政宗の兜?






火薬・弾薬の製造


戦国時代の武士の妻と娘の仕事は火薬、鉄砲の弾を造ることだったんですね。 危ない仕事ですね、火薬は誤爆の危険 が高いし、鉛は体に悪そう...











長篠の戦い


有名な戦いです。 織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼率いる武田軍を打ち破った戦いで、これ以後鉄砲が戦いの 中心的な武器になっていきます。 松本城に展示されているこの写真の屏風は大坂城に所蔵されているものの写真です。







こちらは成瀬家が描いた本当のオリジナルです。 その他の長篠合戦図屏風はこれを模写したものだといわれています。 この合戦図屏風は絵江戸時代初期に描かれたと考えられています。 描いた理由は徳川本家の重臣だった成瀬家が、尾張徳川家の付家老として出されたあと、それを不満に思い、自分の先祖の武功をアピールしようと描いたといわれています。 よってこの屏風絵の主役は成瀬正一です。 与力だった彼は柵の外で兜も付けず、勇猛に戦っています。 そして描かれたのは江戸時代、またこの戦い自体が 徳川­武田の戦いだったので家康、成瀬正一は中央付 近に描かれています。 そしてこの戦いに関しては、援軍という立場の信長や秀吉は隅の方に描かれています。

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長篠の戦いにおいて、通説になっている鉄砲の三段撃ちや、武田の騎馬隊などは、現在では作り話だと言われてい ます。

また2011年に県外お城研修で「長篠の戦い」の舞台になった設楽原に行ったとき案内してくださったガイドさんも同様のことを仰っていました。


関連資料: 2011年県外お城研修資料





コーヒーブレイク


数年前まで織田・徳川連合軍の鉄砲3段撃ちの話を得意げにしていましたが、さすがにもう出来ません。 で、ハタと困り いろいろ調べたり、話を聞いたり、そしたら以下の二つの話がおもしろかったので紹介します。


  1. ひとつ目 自軍の下の写真は戦死した武士の首を持って自陣へ戻ろうとしている武田方の侍が描かれています。 これは銃撃によって討ち死にした山県正景の首を、家臣の志村又衛門が自陣へ持ち帰るところです。

  2. 二つ目 合戦には各武将との論功行賞に使うデータをとる「戦目付け」がいました。 それぞれの大将は何人かの監視人を見 晴らしのよいところに配置して、味方の武将の戦いっぷりをチェックしていたのです。 戦国時代はなぜ戦うかといえば、褒美や出世のため、または生きるためです。 よって正当な評価をしないと誰も ついてきません。 いつの世も同じですね。



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