2階の赤羽コレクションの展示に興味を示す外国人は少なくありません。これまで30近くの日本のお城を訪ねてきましたが、これほど多くの鉄砲が展示されている城はありませんでした。まさに松本城の特徴の一つと言えるでしょう。 鉄砲の説明の苦手な私は、「日本人はコピーが上手なので1年であっという間に日本中に広まりました」と、たまに冗談を言いますが、観光客は「Sure」、「Yes.」とほぼ100%納得してくれます。「コピー上手な日本人」は今や定説のようです。 火縄銃を所有していたのはポルトガル人なのか、中国人なのか?種子島に漂流したのは偶然なのか否か?どうして鉄砲が急速に各地に広まったのか?など、基本の基を書いてみますが、「そんなこと知っているよ」という方はスルーしてください。 「15世紀前半に発明された火縄銃はポルトガル人によって種子島にもたらされた」が定説になっていますが、実は中国人が持っていた、という説も最近有力になってきました。それは“火ばさみ”の位置・仕組みがヨーロッパ製と異なり、東南アジア製と位置が同じなので東南アジア製ではないかとも言われているのです。 東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が地中海交易を支配するようになるとポルトガル、スペインを中心に大航海時代に突入、15世紀中頃から新たな交易ルートの開拓を目指すようになりました。1511年にマラッカを占領したポルトガルはその先への進出を考え、品質の良い生糸の密貿易で富を得ていた倭寇に目を付け、そのおこぼれを得ようとしたと言われています。「鉄炮記」によれば、1543年9月23日種子島に一艘のジャンク船が漂着し、この船に倭寇のリーダー王直とポルトガル人が乗っていたのだそうです。 何故種子島に?これには2説あって、台風によって偶然漂流した、という説と、土佐から南九州を拠点としていた堺の商人の重要な中継地点が種子島だったから、という説があります。 若干15歳の種子島時尭は即座に鉄砲の威力と有用性に気づき、2丁の鉄砲を2,000両で買い取り、刀鍛冶に複製を命じて成功する一方で、紀伊の国の根来寺の僧侶・津田監物(紀州根来衆の支配者)に1丁を譲り、作り方、火薬の調合も教えたと言われています。これがのちに根来衆と言われる鉄砲集団となり、これに堺の会合衆(自治都市堺を運営した組織)が目を付け、部品互換方式で大量生産に成功、急速に全国に広まりました。 鉄砲製造は稲作などのように渡来人が教え、日本の技術として定着した方式と異なり、実物を見るだけで複製に成功したもので、これがものつくり大国日本の原点になったとも言われています。
耳寄りなお話(Tantalizing Tidbit) 18 「鉄砲伝来1」
更新日:2020年11月7日