四方を海に囲まれた島国の日本は古代から文化の進んだ中国や朝鮮半島との人や物の交流を通して文字、政治の仕組み、法律宗教、衣服、生活様式等、諸々の物を取捨選択しながら吸収してきました。化粧品製法や化粧法も最初は大陸経由でもたらされたと考えられていますが、平安中期になってその化粧法が日本独特の化粧へと変化していきました。その背景には藤原一族の摂関政治が確立して国政が安定し、日本独自の文化が育まれる土壌が生まれたことや、9世紀末の遣唐使の廃止もきっかけの一つになったと言われています。
宮廷文化が洗練されていく過程で支配階級である貴族によって白粉、紅、お歯黒、眉化粧などの日本の伝統化粧の基礎が築かれていきました。その化粧は政治の実権が貴族から武家へ移行した鎌倉、室町時代にかけて武家階級に受け継がれていきます。
ちなみに日本の伝統的な化粧に使われた色は基本的に白、赤、黒の3色で、白は白粉、赤は口紅や頬紅、黒はお歯黒と眉化粧の色で、この3色は西洋の化粧が入ってくる明治まで千年以上に亘って日本の伝統化粧の基本色になりました。
平安時代中期に女性がしていた化粧は後期になると公家の男性にも広がり、平安末期に武士が政治の実権を握るようになると、代表的な武家集団である平氏と源氏のうち先に権力の座についた平氏は朝廷のある京都に居を定め、公家をまねて化粧をするようになりました。これが武士の化粧の始まりです。平家物語には「源氏との決戦に敗れた平家の武将平敦盛は薄化粧とお歯黒をしていた」と書かれています。また平忠度(ただのり)は味方と欺いて逃れようとするも、源氏はしていないはずのお歯黒をしていたので敵方と見破られて討ちとられたのだそうです。
室町時代になる頃には天皇や公家の男子は元服の前にお歯黒を付け、眉を抜いて眉墨で眉を作る儀式を行っていました。「春日権現験記絵」では化粧した公家男性は周囲にいる身分の低い者と区別されて描かれています。
武家の男性の化粧も基本的に身分の高い武将が権威の象徴としてするものとなり、将軍家の男子も公家と同じように元服前にお歯黒を付けました。足利義尚(義政の次男)は9歳で元服した際お歯黒の祝いをしたと「蜷川親元日記」に記されています。あの豊臣秀吉も天下統一を前にして小田原征伐に出陣した時お歯黒をつけていたそうです。吉野の花見ではお歯黒だけでなく眉まで描いていたと「太閤記」は伝えていますが、武士で初めて関白・太政大臣に上りつめた秀吉は、盛大な花見の場で自らの権威を誇示するため、あえて身分の高さを強調する化粧をしたのであろうと推測されています。
薩摩の戦国武将島津忠良の治世下ではお歯黒は武士の日常のたしなみであり、また東国の小田原北条氏の武士たちもお歯黒をしていました。「北条五代記」によれば、「侍は賢臣二君に仕えず」の精神をお歯黒にあてはめ、「お歯黒の黒も不変の色である」とし、忠義のしるしとして老若ともに歯を染めたということです。戦国時代の武士は戦でいつ敵に首を奪われるやもしれず、常に死を意識し、覚悟していたため、合戦の身だしなみとしていつも化粧をし、ベストの状態を保っていたのです。
「お歯黒」の正式名称は「鉄漿(かね)」といい、鉄漿が史料に登場するのは平安時代のことで、平安を代表する女流作家である清少納言・紫式部の作品に見られます。原料には鉄が用いられ、鉄を酢や酒に浸して酸化させて作られたこの原液は「鉄漿水(かねみず)」といわれ、色は黒っぽい茶褐色で嫌なにおいがするそうです。この液体を歯に塗り、上から「五倍子粉(ふしこ)」というタンニンを含む粉を塗って歯を黒くしたとのことです。 身分の高い方々の会話はこの鼻を突くような「嫌なにおい」の中で交わされていたのですね!
*参考:山村博美著 「化粧の日本史」
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